H29年(2017年)卒のOB短信

西岡 正治 (Masaharu Nishioka)
光洋機械工業株式会社 (http://www.koyo-machine.co.jp/)
工作機械・メカトロニクス事業本部 設計部 制御設計グループ

2015年 工学部 電子情報通信工学科 卒業
2017年 工学研究科 電気電子工学専攻博士前期課程 修了

私は、大阪府八尾市に本社を置く光洋機械工業株式会社で工作機械の制御設計を担当させていただいています。1961年に光洋精工株式会社(現(株)ジェイテクト)より分離独立し、工作機械メーカーとしては「センタレス研削盤」や「平面研削盤」などの製品で国内トップシェアを誇るリーディングカンパニーです。また、自動車部品の重要保安部品である「インターミディエイトシャフト」の製造においては世界トップクラスのシェアを占めています。
大阪工業大学へ進学したきっかけは、元々数学や物理・化学などの分野が好きであったこと、無線の製造に携わっていた叔父の影響もあり電気や通信などの勉強がしたいという2つの点から電子情報通信工学科を選びました。
大学では色々な講義がありましたが、その中でも神村先生の「レーザー工学」の講義で興味を持つようになり「レーザー研究室」に所属しました。卒業研究のテーマの中で、一般教養学科の先生方との共同研究を行うものがありました。化学合成法を用いることで新しいレーザー材料となる半導体試料を作製し、物性評価を行う研究内容にとても興味を惹かれ、このテーマを選択し卒業研究に取り組みました。白衣を着て様々な合成を行う実験や、作製した試料をレーザーで測定するラマン分光測定や電子顕微鏡での観察は、それまでのアナログ電子回路を用いた実験とは違った新鮮さを感じました。
大学院に進学してからも共同研究を続けることを決め、化学合成法を用いた希薄磁性半導体の作製・評価を行う研究に取り組みました。作製した試料の物性を分析するためにX線回折測定や、磁化測定などの測定方法を取り入れることで多角的な視点から評価を行う方法を学びました。また、(地独)大阪市立工業研究所(現(地独)大阪産業技術研究所)の先生方との共同研究を行う機会があり、試料作成や実験通じて外部の研究者の方と意見を交えることで多くの事を学びました。
 さらに、神村先生のご支援や共同研究先の先生の紹介を通じて短期留学といった貴重な経験をさせていただきました。留学先は中国・上海にある上海師範大学で中国の多様な文化に触れ、多くの友人を作ることができました。また上海は地下鉄網がとても発達しており日本に比べて安い料金でかなり遠くまで乗ることができることや、公安部による監視が厳しく荷物検査が徹底されていた点が印象に残っています。 光洋機械工業へ入社後は半年間の現場での実習があり機械の配線作業や生産ラインで組み立て作業に取り組み、その後設計部の制御設計グループへ配属されました。現在の業務内容は「平面研削盤」のハード・ソフト両方の設計を担当させていただいています。ハード設計では機械本体に取付けられる制御盤・操作盤のサイズや、お客様の仕様
に合った制御部品や周辺機器の選定を行い電気回路図の作成を行っています。弊社では機械の大部分を機械設計が、電気に関わる部分は制御設計が担当し、部品の選定と手配が別になることがあります。構造上の干渉を避けるために機器などの取付け寸法や、選定部品の確認を行うことはとても重要になります。ソフト設計では主にシーケンサーやNCプログラムを用いて機械がどのように動作するべきか、どのようにあるべきかと考えながら組み上げます。場合によっては1から組む必要があるため難しい時もありますが、自分で考えたプログラムが正常に動作した時の達成感は感慨深いものがあります。
 入社してもう3年目という感覚ですが、まだまだ社会人としてはこれからなので日々努力を重ねることでレベルアップできるように頑張ります。

S61年(1986年)卒のOB短信

第55次日本南極地域観測隊(JARE55) 越冬隊通信担当
久保田 弘 (KUBOTA Hiroshi)

 皆さま、はじめまして。

大阪工業大学工学部電子工学科を昭和61年に卒業した久保田弘と申します。
現在は、総務省近畿総合通信局で情報通信行政(ICT政策)の仕事をしています。

昭和基地・19広場にて
昭和基地・19広場にて

私は、平成25年11月から平成27年3月までの約1年4か月間、第55次日本南極地域観測隊(JARE55) 越冬隊通信担当として、南極・昭和基地に赴任しておりました。

このたび、OB短信執筆の御依頼をいただきましたので、その当時の体験を振り返ってみたいと存じます。

日本南極地域観測隊
日本南極地域観測隊

昭和基地は、日本からおよそ1万4千キロメートルも離れています。緯度経度で表すと南緯69度、東経40度付近に位置します。ちょうどサウジアラビアやエチオピアの真南に当たります。昭和基地時間は、日本時間よりも6時間遅れています。

 

昭和基地は南極大陸にあるのではなく、大陸から4キロメートルほど離れた「東オングル島」という東西約3キロメートル、南北約2キロメートルの小さな島にあります。

昭和基地は南半球にあるため、日本とは季節が逆です。いまは1月ですので、昭和基地の季節は真夏です。

昭和基地の平均気温は、8月が最も低くてマイナス20度ぐらいです。反対に最も高いのは1月ですが、それでもマイナス1度ぐらいです。12月頃から翌年2月頃にかけては最高気温が零度を超える日がありますので、降り積もった雪が少しずつ融けだします。

これまでに昭和基地で観測した最低気温は、マイナス45.3度です。ちなみに、昭和基地から約1,000キロメートル離れたところにあるドームふじ基地では、標高が3,810メートルもあるため、マイナス79.7度を観測したことがあります。湿度は一年を通じて低いのですが、厳冬期には特に乾燥しています。夕食後に洗濯した衣類を室内に干しておくと、翌朝にはすっかり乾いています。

人間の活動がほとんど行われない南極は、地球環境を正確に観測することができる地球上でも貴重な場所です。

南極を研究する科学者は、さまざまな自然現象を通して、地球環境の過去を知り、未来を予測しようとしています。

南極地域観測は、国際協力の下に日本国が実施する事業の一つです。

事業の遂行に当たっては、極地科学に関する研究や観測及び業務に関係する複数の機関が担当分野の責任を負い、文部科学省に置かれている南極地域観測統合推進本部が省庁横断的にそれらを統合推進する責任を負っています。

日本における南極地域観測は、昭和32年(1957年)に南極大陸リュツォ・ホルム湾にある東オングル島に昭和基地建設を決めて以来、60年以上にわたって実施されてきました。

また、世界的な観測網の拠点として、定常的な気象観測の継続実施やオゾンホールの発見、研究プロジェクトとしての月隕石・火星隕石を含む世界最多級の隕石の採取、氷床掘削で得た氷床コアの解析による過去数十万年にわたる気候変動の解明及び生態系や大気中の二酸化炭素量のモニタリングによる環境変動の研究など多くの観測研究の成果を上げています。

私が参加した第55次観測隊では、24名の越冬隊員が昭和基地の維持運営の任務に就いていました。

越冬隊員は、大きく観測系の隊員と設営系の隊員に分けることができます。観測系の隊員は、電離層や気象、地磁気、オーロラなどの各種観測を行っています。設営系の隊員は、通信のほか、機械、建築・土木、調理、医療、環境保全、庶務・情報発信などの業務を行っています。

隊員の選考は、出発する前年の11月頃から始まります。また、隊員は、主として関係機関や研究組織から推薦を受けた人のなかから書類審査、面接、健康判定などの選考によって選ばれます。隊員のなかでも、医療隊員や調理隊員などは、一般公募で選ばれています。

昭和基地無線局の通信卓
昭和基地無線局の通信卓

隊員に求められるものとしては、専門的な知識・経験を持った「その道のプロ」であることはもちろんですが、心身ともに健康で協調性があり、また、歴史ある国家事業に従事する観測隊員としての自覚と責任を持てることが重要です。

通信担当の主な仕事としては、無線通信の宰領、無線設備の保守、電報の取扱いなどがあります。

越冬隊には通信担当が一人しかいませんので、通信に関することは、全て私が責任を持って行わなければなりません。(ただし、LAN及びインテルサット衛星通信システムについては、専任の隊員が別にいます。)

特に無線設備が故障したときには、迅速な対応が求められますので、気が休まるときがありません。

また、限られた人数で基地を維持運営していかなければなりませんので、通信の仕事以外に除雪や建築・土木工事、車輌整備、各種観測の補助などの仕事も行います。さらに、風呂やトイレなどの共用部分の清掃、調理の補助、散髪なども交替で行っています。

昭和基地における通信には、(1)日本国内との通信、(2)野外観測チームとの通信、(3)基地及びその周辺における作業連絡用の通信、(4)南極観測船しらせや観測用ヘリコプターとの通信、(5)外国基地との通信などがあります。

インマルサット衛星通信システムの修理作業
インマルサット衛星通信システムの修理作業

通信する相手との距離や目的によって、HF(短波帯)無線、VHF(超短波帯)無線、UHF(極超短波帯)無線、インテルサット衛星通信システム、イリジウム衛星携帯電話などの無線設備を使い分けています。

第1次観測隊が昭和基地で越冬を開始して以来長い間、隊員が日本にいる家族と連絡をとる唯一の手段がモールス通信による電報でした。

これを大きく変えたのが、昭和56年(1981年)に第22次観測隊が持ち込んだインマルサット衛星通信システムでした。これによって、電話やファクシミリなどで、簡単に日本国内と連絡できるようになりました。

さらに、平成16年(2004年)に導入されたインテルサット衛星通信システムによって、インターネットの常時接続が可能になりました。現在の昭和基地では、インターネットは、仕事に、また家族との連絡に欠かすことのできない存在になっています。

私が昭和基地に到着した当初は、通信の内容を一言も聞き漏らすまいと非常に緊張して通信を行っておりましたが、越冬終盤近くになると、さすがに落ち着いて通信できる余裕が出てきました。人間の慣れとは恐ろしいものですね。

波帯送信機の定期点検作業
2kW短波帯送信機の定期点検作業

越冬中、無線設備の故障も相次ぎました。車載型・携帯型無線機をはじめインマルサット衛星通信設備、短波帯送信機、ロンビックアンテナなどの故障には相当悩まされました。しかし、苦労して修理できたときの感激はいまでも忘れることができません。

仕事以外では、野生のペンギンやアザラシとの遭遇、そしてオーロラ、白夜、極夜、ブリザードなど通常では滅多に体験できないことをたくさん体験することができました。

昭和基地での生活は、楽しいこともたくさんありましたが、その一方で辛いこと、しんどいこともたくさんありました。瞼(まぶた)を閉じれば一つ一つの出来事がまるで走馬灯のようによみがえってきます。

ユーモラスなアデリーペンギン
ユーモラスなアデリーペンギン

大きな怪我や病気をすることもなく無事に任務を遂行できましたのも、ひとえに国内で支えていただきました多くの皆さまのおかげです。お陰さまで、第54次観測隊から託された通信隊員の襷(たすき)をなんとか第56次観測隊につなぐことができました。この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

ウェッデルアザラシ
ウェッデルアザラシ

私は、これまで校友会活動にはあまり参加しておりませんでしたが、日本南極地域観測隊に参加したことが御縁となり、平成30年10月に常翔学園校友会(旧大阪工業大学学園校友会)関東支部と広島国際大学校友会関東支部とで構成する「東芳会」の第57回総会において、「日本の南極地域観測と南極通信事情 ~日本南極地域観測隊に参加して~」というテーマでお話させていただきました。

これからは、少しずつでも校友会活動に参加させていただきたいと存じますので、よろしくお願いいたします。

満天の星空とオーロラ
満天の星空とオーロラ

皆さまには、もっともっとお伝えしたいことがあるのですが、OB短信では十分にお伝えすることができません。国立極地研究所のWebサイトに「南極観測のホームページ」があります。興味のある方は、是非御覧になってみてください。南極観測のことをより詳しく知っていただけることでしょう。

国立極地研究所 南極観測のホームページ
https://www.nipr.ac.jp/jare/

H23年(2011年)卒のOB短信

オプテックス株式会社 戦略本部 開発センター R&D課
辻 久美穂(Kumiho Tsuji)さん
 私は、2011年に大阪工業大学の大学院を修了し、オプテックス株式会社で働き始めました。オプテックス株式会社は、滋賀県大津市にあるセンサメーカーです。
 会社は琵琶湖のすぐそばに建っており窓からは琵琶湖を一望出来ます。初めて会社に訪問されたお客様からは「素晴らしい景色」「まるで日本じゃないみたい」「こんな環境で仕事をしたい」と喜んでいただけます。
ところで、「オプテックス株式会社」の名前を聞いたことがある人は非常に少ないと思いながらこの記事を書いています。私も就職活動をするまでオプテックスという会社のことは全く知りませんでしたが、実は私たちの生活の身近にある製品を作っている会社です。
オプテックスは、おそらく皆さんが一日一回以上利用している「自動ドアのセンサ」を作っているメーカーです。自動ドアセンサの国内シェアは約60%。つまり二台に一台はオプテックスの自動ドアセンサです。それ以外にも、防犯用人感センサを開発し、世界80カ国以上へ販売しているグローバルな会社です。
私は、入社直後海外向けの防犯センサの開発に携わりました。現在は、センサの需要が見込まれるIoT(Internet of Things)市場に対して、新たなビジネスモデル作りや新たな技術・製品の研究開発をしています。
 学生時代は、小池先生の新機能デバイス研究室に所属し、半導体に関する研究をしていました。
研究室に入ったきっかけは授業の時に見たこんな映像でした。
―電車の窓やデスクがタッチパネルになり、操作すると必要な情報が表示される―
この映像を見た当時の私は、映画や本の中の世界が実現になんだ!
と驚き、わくわくしたことを覚えています。そこから約三年間、矢野先生と小池先生の指導の元、研究を行い、多くの事を学び貴重な経験をさせていただきました。
 最近では、仕事終わりや土日に開催されている勉強会やコミュニティに不定期ですが参加しています。このような場では、働く環境が違う人達と関わることが出来るため、新たな気付きを得ることや、別の視点で物事を考えることが出来ます。また同世代の女性技術者や結婚出産後も働きつづけ管理職をされている女性達のコミュニティもあります。同じ会社内に女性技術者が少ないため、ロールモデルが身近にいないのですが、社外の女性技術者の方々と会話をすることで、将来、自分がどうありたいかを考える機会を得ることが出来ました。
今いる環境ではない別の環境に身を置くことで、様々な経験や出会い、発見があります。学生の皆さんも、好奇心を持って色々なことにチャレンジしてほしいと思います。

H24年(2012年)卒のOB短信

株式会社メガチップス 人材開発部 組織・採用グループ 採用担当
青木 隆裕 (Takahiro Aoki)

■会社情報
株式会社メガチップス http://www.megachips.co.jp/
(RecruitingSite http://www.megachips.co.jp/recruit/index.html)
市場情報:東証1部
※株式会社メガチップスは、独立系のファブレスメーカーで使える技術や設備に制限が一切無く、課題解決向けたアプローチを多用に持っているという特徴があります。
ベンチャー企業精神が強いので、大企業の鼻を明かしてやろう!という気骨のある方を募集しています。

■学歴
2012年 工学研究科 電気電子工学専攻 博士前期課程 終了
2010年 工学部 電子情報通信工学科 卒業

【大阪工業大学を選んだ理由】
小学校~高校頃に、自宅でパソコンを触れることが多かったので、電化製品はどういう仕組みで動いてるんだろう?何ができるんだろう?という興味もあり、ソフトとハードが両方とも学べる電子情報通信工学科を選びました。

【大学院へ進学】
大学院へは、今しか出来ないことをチャレンジしたい!という想いで進学しました。
講義を通して半導体について興味を持ち、小池先生の新機能デバイス研究室で単結晶酸化亜鉛に関する研究しました。
青色LED作製を目指し、PL測定やX線回折装置を使用して単結晶酸化亜鉛を分析しながら、研究に明け暮れる日々で、再現性保つにはどうすればいいか?どうすればより高品質な結晶になるか?などを小池先生と議論しなら研究を行っていました。
単結晶酸化亜鉛薄膜に対する8MeVプロトンビームの照射効果に関する研究テーマでは、東北大学、筑波大学と共同研究を行い、他大学と交流することで普段とは違う見方・考察をを養うことができ、研究を通して自身を成長させることができました。

【株式会社メガチップスに入社】
就職活動は、大学院1年生の終盤に開始しました。
大学院で研究していた半導体をもっと上位で使用する仕事に興味を持ち、その分野の仕事を中心に探していました。
株式会社メガチップスに決めた理由としましては、独立系のファブレスメーカーで当時は従業員300名程度で大企業に負けない高い技術力があるという点、ベンチャー企業精神で色々なことにチャレンジさせて貰える文化があるという点、社内の風通しが良いという点に惹かれで決めました。
2017年4月までは大学院で学んだ製造プロセスに関する知識を生かしながら、アナログ回路設計の経験を積んでいました。大企業ではレイアウト設計とアナログ回路設計で担当が分かれて設計していたりするのですが、メガチップスでは両方とも同じ担当者が設計を実施し、アナログ回路設計の意図を反映させたレイアウトを作れる回路設計ができるという特徴があります。その後、縁が合って人材開発部という人を採用/育てる部門で新たにチャレンジさせて頂いてます。
来年度も採用担当として、一緒に働く仲間を募集したいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
入社後はどこにいままでの経験が生かされるのだろう?と不安になるかもしれませんが、学生時代に培った知識、経験は、必ず職場でも生かされます。
就職活動は学生時代における人生を左右する最大の岐路になると思いますが、自分自身の決断に後悔がないようにしっかり悩みながら前に進み、頑張って下さい!

S45年(1970年)卒のOB短信

小泉 博 さん
[1970年の大阪万博の年に毎日放送に入社]

私は昭和45年(1970年)の卒業ですから47年経っています。この年は吹田で大阪万博が開かれ、世は万博景気と言われて就職も好調で、私は千里丘の毎日放送に技術職として入社しました。もう退職して6年ほどになりますが、放送局の技術職には大きく分けて2種類ありました。一つは放送や送信などを担当する純技術です。番組やコマーシャルなどを番組表にそって間違いなく正確に送出し送信所から各家庭に届けます。今はめっきり見なくなりましたが、当時は機器が不安定で放送が途切れたり番組が不体裁になる放送事故は度々あって「しばらくお待ちください」というテロップがよく出ていました。担当者はその都度心臓が止まる思いで復旧していたものです。

もう一つは番組を作る技術で制作技術といいます。カメラマンや音声ミキサー、照明や編集などスタジオや中継現場で番組を作ります。意外に思われるかも知れませんが、これらの担当者はすべて電気・電子出身の技術者なのです。カメラや音声機器や編集機などはすべて電気機器で、取扱いはデリケートで不安定なものでよく故障しましたし、修理もしなければなりませんので電気技術者でなければ使いこなせなかったのです。

 

[テレビカメラマン]

私の趣味はカメラでしたのでカメラマンを希望し若いころはテレビカメラマンをしていました。ところが番組はすべてのジャンルを担当します。ドラマ、バラェティー、スポーツ中継、報道、当時はクイズ番組や歌番組も盛んでした。歌番組ではカメラワークのため前奏や間奏が何小節あるかカウントしなければなりません。私は音楽やスポーツには疎かったためイントロという言葉もわかりませんでした。当時はカラオケというものもなかったのです。スポーツ番組では野球であれゴルフ、ラグビー、バレーボールなど何でもルールを知らなければなりません。あたりまえですが理解できないものは撮影できないのです。したがって制作技術では広く浅くなんでもある程度知っておく必要がありました。

 

[ドラマ制作は重労働]

毎日放送ではドラマも盛んに制作していました。ドラマの撮影は深夜に及んだり徹夜になるのもめずらしくなくて、作業はかなり厳しいものでした。スタジオにはドラマセットを建てて撮影しますが、セットの家はスタジオの床に打ち付けることができません。スタジオの床に置いてあるだけです。台所でヒロインがショックを受けて、洗っていた茶碗を落として割るというシーンはよくあります。ところが、本番では「ボコッ」という音がして何度落としても割れません。部屋の床が台に乗っているだけなので割れないのです。結局皿を2枚重ねて落としてやっと割れました。

役者さんもいろんな人がいますが、現場のスタッフに撮影のテクニックやコツを教えたがる人もいます。時代劇である大物俳優が店から出てきて、店先で待っている町駕籠に乗って去っていくシーンがありました。そこでテクニックを教えてくれるのですが、考えてみますと今本物の駕籠屋さんはいません。駕籠を担ぐのは役者さんです。町駕籠ですから前と後ろの二人でお客一人を乗せて担ぐのです。どうしてもヨタヨタと担いでいく様になります。そこで、店から出てきて駕籠に乗り「駕籠屋さんやっとくれ」と言って御簾(駕籠ののれん)を下し、駕籠屋さんが「ヘイ」と言って担ぐ間に反対側からスルリと降りてカメラに映らないほうに隠れました。空駕籠は「エイホ、エイホ」と客を乗せた体で去っていきました。このような役者さんを我々は「スタッフ役者」と呼んでいます。

 

[NG集 役者やスタッフは必死]

役者さんが言うには、「セリフを覚えなくてもよかったら」こんな楽な仕事はないといいます。

意外にも名前が覚えにくいそうです。覚えにくいというよりも忘れやすいのでしょうか。普通のセリフは前後の文脈があって想像できる部分もあるが、名前は思い出せなければそれっきりです。本番で逃げる犯人に向かって「コラ待て!溝上」と自分の役の名前を叫んでNGになることもよくあります。

あるドラマで主人公の大会社のワンマン社長がガンに侵され余命幾ばくもないことになりました。そこで、関係者一同を呼び集めて遺産相続を言い渡すシーンがありました。そこには妻と子ども達以外に、別れた女や妾やその子供達、おまけに強欲な親戚など大勢が詰めかけています。大詰めの大変重要な長いシーンで、ほとんどが社長の長セリフです。社長役の役者さんは心配で横に控えさせている顧問弁護士役の役者さんに「名前が出なかったら助けてね」と助っ人を頼んでいました。

さて、本番です。「長男の隆に株券を…」「次男の正には○○の土地を…」つぎに「長女のあー…」

すかさず弁護士が「春子さま!」、ああ「春子には現金○○円」となんとか全員の遺産相続言い渡して長いシーンが終わりかけたときに「あー… う… …」、と絶句。一同「??」、社長「俺の名前忘れた!」 弁護士「それは言えないよ」一同ずっこけて最初からやり直しになりました。

ところで、ドラマの撮影が終了したとき打ち上げ懇親会が開かれます。そのときVTRに収録されている失敗のNG場面を皆で見て、改めて大笑いをして楽しんでいました。当然その後NG収録分は破棄していました。それらずっとあとになって、他局ですが失敗場面のVTRを集めてNG集とした番組が現れ好評を得ていました。アイデアとはこんなところにあるのでしょうか。皆が捨てていたものを使って番組を作った人は、ほんとうに偉い人だと思っています。

以上放送局のほんの一部を紹介させていただきました。好きでしていた仕事でしたので、いろんな経験ができておもしろい世界でした。 もう飽きましたけど!

H7年 (1995年)卒のOB短信

梅田裕香さん

私は高校生の時、超電導に興味を持ち、リニアモーターカーに憧れて大阪工業大学電子工学科へ進学しました。元々理系でしたし、女性が少ない等の不安や不便さも全く気にしていませんでした。しかし女子トイレが各棟に1つしかない。購買部では男性のものしか売っていない。など予想外の面白さでした。移動するときはまずトイレの場所を気にして覚えておく、など今思い出したら笑ってしまいます。

電子工学実験ではレポートの担当になると、図書館で関わったこともないようなジャンルの本を探して読み漁ったり、またそれなりに理解できていけたり。学校生活では周りの人と話してなんとなく友達になっていけたり、いろんな物事に接することで大変勉強になりました。卒業研究では3次元CGの作成を行い、研究室では失敗と成功の繰り返しで、粘り強さと根性をみっちり叩き込まれました。

卒業後、入学時の思いとは全く異なる業種へ就職しました。Oracleのオープン系システムの開発で、技術的にも人間的にも鍛えられました。PL/SQL、Dveloper2000を使える技術者は少なく、リリース後の不具合対応のプロジェクトに参画することが多かったです。学生時代に鍛えられた根性で、一人で夜間バッチの監視、納期間近の徹夜、上へのスケジュール見直し提案なども行いました。なんといっても「大阪工業大学」という看板が大きな力になりました。所詮女性という見方が多いので、実績、知名度を上げてもなかなか耳を傾けてはもらえません。「え、大工大ですか?」という言葉を何度も聞きました。どうしても見た目だけでは技術力が分からないし、現場で泣く、投げ出す人を私も見てきましたから仕方ありません。

現在は主婦です。3年ほど前に退職しました。会社からは家庭との両立を望まれましたが、仕事をセーブして続けるということに納得がいかず、退職することにしました。自分の中で完全にやりきった気持ちなので悔いは全くありません。今までとは違う生活を送るうちに、仕事は完全に過去のものになりました。

年齢を重ねても未経験なことは数多くあります。いい機会だから主婦でしかできないことをしています。自治会の役員をしたり、PTAの学級委員長をしてみたり。パワーポイントでスライドを作るのも、仕事でパソコンを使っていたので何となく作れますが、「何でできるの?」が普通の感覚のようです。周りの人との会話で、少し自分が違う世界にいたんだなと感じることが多いです。仕事は在宅で中学生の模擬テストの採点をしています。端末上で行うのでペーパーレスです。これもまた楽しいです。

今の一番の楽しみはパピーウォーカーです。盲導犬の子供を預かって育てています。以前は興味もなかったことに今は興味をもっている。不思議な自分がいます。今までの経験が無駄になることは一つもありません。私は大阪工業大学で勉強して本当によかったです。こうして大学とまたつながることができて大変うれしく思っています。

H19年 (2007年)卒のOB短信

橋本貴史(Takahito Hashimoto)

ローム株式会社 http://www.rohm.co.jp/web/japan/
LSI生産本部 生産担当 LSI製造部
LSI技術担当 立体加工 プロセス課 薄膜グループ

2007年 工学部電子情報通信工学科卒業
2009年 工学研究科電子電気工学専攻博士前期課程 修了

≪ハードウエアづくりを学ぶために大阪工業大学へ≫

私は、カスタム LSI 大手のローム株式会社で、LSI のIT産業技術の開発を担当しています。「ローム株式会社」の製品としての名前はあまり知られていませんが、JR 京都駅の照明や新型プリウスをはじめ、多くの製品にはロームの電子部品が使われています。ご利用されるお客様の顔が見えるのは製造業の面白さであり、やりがいを感じています。

≪講義で興昧を持ち半導体の世界へ≫

私が大阪工業大学への進学を決めたのは、コンピュータのハードウエアを専門に研究されている先生のもとで、その技術を学びたいと思ったからです。しかし、小池一歩先生の「基礎電子回路」の講義で、半導体の最新技術について教わったことをきっかけに半導体に興味を持つようになりました。特に透明な半導体に関する話は印象的で、授業後は先生の研究室にお邪魔して、半導体について教えていただくようになりました。卒業研究では小池先生の「新機能デバイス研突室」に所属し、半導体による電子部品「透明トランジスタ」の研究に没頭しました。完成品は非常に性能が高く、当時、世界トップクラスの性能を記録しました。このような成果を挙げられたことはとてもうれしく、学生時代の思い出に残る研究となりまし
た。

≪材料を選び、より安価な青色 LED の開発に着手≫

大学院では、ナノ材料マイクロデハイス研究センター(ナノ材研)に入り、さまざまな経験をしました。私がナノ材研に入った頃は、大阪工業大学が「ハイテク・リサーチ・センター」という国のプロジェクトに選定され、センターを一新するタイミングでした。どのような装置を新設するかはセンター内の各グループに任されていたので、私は X線で材料を測定する装置を設置し、ほかの研究室の学生が持ち込む電気・電子サンプルの測定をしながら測定技術を磨きました。また、機械工学科の上辻靖智先生の研究にも携わり、著名な先生方が出席される学会で発表する機会も多くいただきました。そんな多忙な研究生活の中で私がメインに取り組んだのは、青色発光ダイオード(LED) をつくる研究です。現在、世の中で使われている青色 LED より安価につくるために、酸化亜鉛を材料に研究をス
タートしました。この研究は、当時大阪工業大学では始まったばかりだったので、一から取り組むことが面白く、やりがいを感じました。毎日朝から深夜まで研究を続けていましたが、青色 LEDを発光させる段階までは到達できませんでした。しかし、研究成果をまとめ大学院の修士学位論文発表会では論文賞をいただき、苦労が報われました。

≪自由化研究に打ち込んだ大学院時代の経験を生かす≫

大学院修了後、ローム株式会社を就職先に決めたのは、先輩方から「入社1年目からいろいろな仕事を任せてもらえる」と聞き、魅力を感じたからです。実際、私も1年目から自分で計画を立て、開発に取り組みました。LSI製造の効率化を考えた時は、これまで使用していた国産材料を見直し、国外産材料が適用できるかどうかを評価し、大幅なコストダウンに成功しました。このような仕事を最初から戸惑うことなくこなすことができたのは、ナノ材研で計画を立てて結果を解析・評価し、先生に報告するという、会社と同じ流れで研究をしていたからだと感じています。社会に出て改めて思うのは、大阪工業大学では、社会で通用する力を知らず知らずのうちに身に付けることができ、また、他大学出身者の話を聞くと、大阪工業大学ほど研究環境に恵まれた大学はないと実感します。大学院では、自分で実験テーマを立案し、材料を買って装置をつくったこともあります。失敗することも多くありましたが、そんな環境だったからこそ、意欲を絶やすことなく研究に打ち込めたのだと思います。

(2016.9.8作成)

H27年 (2015年)卒のOB短信

H27卒,福井千晶
(現在,大阪工大大学院前期課程1年,電子クラブ幹事)

私が電子情報通信工学科に入学したのは2011年で、現在在学5年目になります。OB短信を書かれてきたOBの方よりは経験などが浅いと思いますが、大学5年間を振り返って見ようと思います。

私が入学した時最も驚いたことが120人の学生のうち女性が5人しかいなかったことです。高校の時も女性が少ないクラスにいましたが、これほど少ないとは思いませんでした。現在の1年生の女性も5人程度であるので、せめて女性の数が2桁くらいになって、工学が好きな女性が増えればいいなと思いました。

高校を卒業した時点で大学生活とはどのようなものか想像ができなかったため、すべてにおいて必死だった記憶があります。1年生の基礎科目はなんとか高校の延長という感じでしたが、2,3年の取得単位の多さと専門分野の難しさと部活やバイトに忙しかったです。逆にここで挫けなかったことが今の自信になっていると思います。

大学の授業は高校の授業と違いなぜそのような動作原理になるのかをひたすら理論的に考えるところが面白いなと感じたところです。なぜそのようになるのかをひたすら考えて問題などが解けた時の達成感はひとしおでした。1限目から4限目が終わったら平日は部活かバイトに行く生活をしていました。私は茶道部に入っていたのですが、抹茶を飲みほっこりすることや新しい点前を練習している時がとても楽しかったです。新しい点前を習得した時や先生から褒められた時はもっと頑張ろうと思いました。またこの部活はお茶会がとても多く、説明やフリートークをどのようにしたらお客さんに楽しく過ごしてもらえるかを考える機会が多かったので、部員とどのようなコンセプトでお茶会をするかを話し合うことが多くありました。この時に部員たちと話し合う大切さを学びました。3年生になると部活の引退、研究室の配属、就職活動、4年生になると卒業研究の着手など様々な出来事がありました。

3年生の部活の引退においては、茶道について右も左もわからない状態から、学年が上がるにつれて運営や後輩の指導などに携わることができて自分自身で成長できたのではないかと思いました。

研究室の配属については最後まで悩みましたが、自分で選択したことについてはあまり後悔したことがないので、この研究室で良かったのではないかと思っています。この研究室に配属されてから、建物の設計図から配管の長さを自動積算するシステムの構築についての研究を行っています。この研究は電子クラブのOBの方との共同研究です。

施工業者の人はまずケーブルや給水管やガス管が何本のものが何メートルいるのかを見積もらなければなりません。どのようにするのかというと建物の設計者から受け取った設計図面から見積もりをします。この研究は実際に施工業者の人がしている方法と同じ方法で解析する手法をとることにしました。施工者は表になっている凡例記号と同じ記号を建物の設計図中から探しだし、個数を数えます。そして同じ記号同士を結ぶ線の長さを図り見積もりを出すといったものです。この研究は実装する手順などが簡単そうに見えるため1年くらいで終わるであろうと思っていました。この研究では施工業者の人は建物の設計者から紙の設計図かPDFを受け取るため、設計図がPDFであるときはPDFの解析をする必要がありました。このPDFの解析をするライブラリも少なく、解析をすることがとても難しいです。現在もこの研究を続けており、問題にぶつかる度に研究とは奥が深いなと思うようになりました。しかし、あきらめずに理論的に物事を考えて研究を進めていきたいと考えています。

そして私には今後、就職活動、卒業、就職など次のステージが待っています。その時は今まで経験したことを生かしていきたいと考えています。就職活動ではいつも電子クラブのOBの方に就職の講演などをしていただきありがとうございます。私たちはOBの方に支えられていることを実感しました。また私たちが卒業して社会人になった時に後輩をサポートできるようになりたいなとおもいました。

H10年 (1998年)卒のOB短信

H10年卒 吉田誠

私は、本学電子工学科を1998年に卒業後、今年で16年になります。
月日の経つのは早いもので、「もうそんなになるのか」と改めて感じています。
卒業してからは高周波回路、アナログ回路の研究・開発・設計を業としてまさに電子工学が本領発揮できる現場で仕事をしてきました。
大学時代に学んだ事が確かに必要になっているのですが、いかんせんしっかり学んできたつもりが、社会に出てから再び学び直しの感があります。
実際の現場での電子回路の振る舞いの解析は、物理現象の振る舞いを観察する「物理実験」のようで、モノの振る舞いから自身で仮説を立てて、動かしてみて、どういう挙動を返してくるか、この結果に正直に向き合いながら進めています。特に性能を追い込むときには、この時の観察力と考察力が重要になってきます。
また、アンテナやフィルタなどの高周波回路は目に見えるわけではないので、基礎理論として大学時代に学んだ、マクスウェルの方程式のお世話になっています。というと聞こえはいいですが、実はシミュレーターのお世話になっているだけとも言えますが・・・。
しかし、シミュレーターは、なにがしかの結果は出してくれますが、最適な結果を自動で出してはくれません。シミュレーターから、自身が希望する結果が出るように条件を設定してやる必要があります。このような時、マクスウェル方程式から基本的な振る舞いの方向性を理解しておくと、これほど心強い事はありません。
新しいものを開発し作り上げる時、自身が「こうしたい」、「ああしたい」という構想を実現するためには、このようにして物の振る舞いをしっかり理解するところがベースとなり、そこに、自身の思いが重なって作り上げることが出来るのではと、私は考えています。
さて、話は変わりますが、先日、技術士資格の試験を受けやっとのことで合格をいただきました。
技術士という資格は電子工学関係の方には、なじみが少ないかもしれませんが、技術士は科学技術に関する技術的専門知識と高度な応用能力を国によって認められた技術者の称号で、科学技術の応用に携わる技術者にとって最も権威のあるといわれている国家資格です。
国際的にもAPECエンジニア登録制度があり、有能な技術者が国境を越えて技術者資格が相互承認され自由に活動できるようになってきています。
我が電子情報通信工学科でも、技術士に関連してJABEE認定課程が始まろうとしており、これは、大学のカリキュラムの修了が第一次試験の合格と同等であるものとして認められるものですが、その準備が着々と進んでいるようで将来が楽しみです。
技術士に求められるものは課題解決能力です。その意味で、この試験に挑戦することは資格を取ることだけではなく、下記のような一連の流れを身に着けるためにとても役立ったと感じています。

①現状の整理
・・・現状の把握と分類・整理をする。この作業を実行する事で自身の身につく
②課題の抽出
・・・本当は「こうあるべき」なのに、できていない事を抽出する
③急所を見つけ出す
・・・本来実現したかった事を進めようとする時に、妨げになっている急所を見つけ出す
④解決の方向性を決定する
・・・急所を解消するため(方式を変える、発生源をなくす、動作範囲を絞る)等の方向性を示す
⑤多角的な視点で検証したうえでの提案
・・・矛盾や見落としがないかいろいろな目線で検証したうえで、論理的に提案する

さて先日、この技術士の試験を合格したメンバーが集まるレセプションがありましたが、ここでも大阪工業大学の関係者の方にお会いしました。様々な第一線の場所で、大阪工大の関係者にお会いするのはうれしい限りです。
ここで注目したいのは、この技術士においても分野を超えた「横のつながり」を重視していることです。
我が電子クラブも様々な分野で活躍されている先輩方がおられますが、同じ母校という強い「つながり」を皆さんすでに持っておられます。
このつながりを大切にし、お互いが第一線の場で活躍し、自身を磨きつつ、共に刺激しあうことで、少し大げさかも知れませんが互いの技術力の拡大がより勢いを増し、ひいては日本の技術の発展につながると確信しています。
ぜひ、皆さんもこの電子クラブを共に活用し、互いの触発の場として活用されていかれることをお願いします。

(原稿受領:2014年5月1日)

D40年(1965年)卒のOB短信

堀内義章
HORI Technology Office 代表 ストレージアナリスト
(電子クラブ・相談役、大阪工大校友会・常任幹事・学生支援部長)

 

電子工学科(現電子情報通信工学科)を卒業して、今年で48年目を迎える。その年の学科では、一クラスで人数が一番少ない100名強。強烈な印象は、1年生の初めての授業が1限目の数学で、授業が始まってすぐに「気分を害した」と発して授業を中止されたS教授。理由は、前列横で漫画を読んでいた学生がいて、その状況に関して発言・行動だった。いきなり”どきま”を突かれた形だ。大学の厳しさを身近に感じた授業の第1歩であった。

それから、逆に筆者が、同大学の非常勤講師(8年前)をしていた時の学生の授業で、驚いたのは、授業中に「雑談する」「授業後の食べ屑・ペットボトルの置きっ放し」と非常にモラルが悪く、そうゆう躾がされていないのも事実。学生の質が問われるが、直ぐに学生と約束。「雑談をしたかったら、他人の迷惑になるので外に出て話し、終わった速やかに戻ること」「自分で出した塵は、持って帰ること」など社会人になると、これらの行為は通用しないことを注意した。しかし、2回目も同じことが続き、再度同じように注意。雑談者は直ぐに教室を出てもらった。3回目はさすが、これらの行動を取る学生はいなかった。やはり、大人の注意がないために分からずに行動していることと悪いと言う感覚がないことを痛感し、社会人としての指導者の態度も問われることを感じた。

その意味で、筆者は現在、工大校友会の学生支援部担当として、少しでも電子情報通信工学科を含め、就職を中心とした学生支援ができればと、3年前から取り組み今年で4年目を迎える。先輩として少しでも力になれればと思っている。新たに行ったことは「就職部と共同で”OBの就職フェスティバル”」「OBのスキル登録」で、今後は残り1年弱で、「OBオーナー企業の登録」「就職部との相談で相談室の開設」「OBの就職講演会」などを考えており、是非任期までに実行したいと思っている。それに加えて、工大校友会として初めて大学と共同で、第1回目の「ホームカミングデー2013」を、今年10月26日開催予定で計画を進めている。電子情報通信工学科の卒業生は、各年度別の幹事を選定(または積極的に手を上げて世話役に)して、これを機会に学年別クラス会を開催して参加して欲しいと思っているし、積極的に工大校友会や電子クラブのホームページを検索して、動きを見て欲しいと思っている。卒業生が母校と繋がることにより大学と企業を結びつけ、企業にも基礎部門で活用できる大きな結びつきの場となると思われる。

電子情報通信工学科のOB会である電子クラブも、2期4年(2004年4月~2008年3月)、会長を引き受けて、色んな新しき芽を吹き込んだ。「5年に1回の名簿発行を中止し、ホームページベースの開設」「OBの非常勤講師として授業の分担(「情報と職業で実施」)」「学生幹事の参画」「先生の授業の1コマをもらい、企業の体験授業」「OBの就職・講演会」「新入生の4月のガイダンスに電子クラブの説明を入れる」「大学院の研究成果発表会への支援金」などを実施、現状では更にこれらがグレードアップしている。電子クラブは、さらに現在の溝上会長が、色々な企画で、OB-先生-学生を繋いでいる。その意味で、卒業生は是非、この電子クラブとコンタクトをとってもらい、双方で活用してもらいたいと思っている。その一つが、ホームページで少なくとも2~3カ月に1回(可能なら月1回)は検索をしてもらい、母校の動きと情報の提供をお願いしたいと思っている(併せて工大校友会のホームページも検索を。ここから電子クラブも検索できるので)。

40年卒業の同級生も卒業当初、関西メンバーは月に1回曜日と場所・時間を決めて集まっていたが、残念ながら長続きはしなかったが、その後、幾つかのグループが個々に開催していたのを統合し、ここ数年は、同級生の村井さんの音頭の下に、毎年1~2月に神戸の有馬温泉に場所を決めて1泊とまりで集まっている。5~10名前後だが、メンバーも入れ代わり、また遠方からも来てくれている。まだ現役の社長で頑張っている人や個人で顧問やコンサルタントを続けている仲間が10人集まれば4名もいて、壮年パワーを発揮している。これらを、現役学生がうまく使えば、OBとしてのよきアドバイスが可能だと考えている。今年は2月に続き、第1回の工大校友会のホームカミングデーが開催(10月26日)される前夜(10月25日 有馬温泉で)にも40年卒のメンバーのクラス会開催を予定している。

筆者自身としては、今年は巳年。専門とボランティアを中心に活動している。専門の仕事(HDDを中心としたストレージは経験48年)を、パソコンを事務所として、講演やセミナー講師、毎月のレポート提出、東京の協会の手伝いなどを行っている。毎日が勉強で、新聞3紙(朝日新聞、日本経済新聞、電波新聞)とインターネット、展示会取材、講演会、企業プレゼンなどで専門と世界の経済や国の動きを分野別に毎月まとめて配布、海外に出て、国民性や町の空気を実感。ボランティアは、国立民族学博物館(大阪府吹田市)での特別展示案内役、大阪南太平洋協会の毎年(7回)のアニューギニアの2週間の滞在で現地支援、災害ボランティア・ダッシュ隊大阪で石巻への7回の復興支援、個々に毎月の楽酒の会開催、週1回のテニス、毎日のストレッチなどで、グレードアップしている。卒業生の皆さん、是非、電子クラブのホームページ検索を!